昼前、散髪。昨夜の直轄道場での稽古は暑かった!よって、2年ぶりの超刈り上げとす。ここまで来たのなら、武術家としてさらなる高みを目指したい。先日、ウチの道場稽古を見学に来た某デザインプロダクション社長氏も言っていたが、コピーライターとの凄まじいギャップにただただ唖然とするのだと。俺はといえば、達人の域にある我が師、廣原先生に昨夜久しぶりに手合わせしていただき、自分のダメっぷりを痛感している。同時に、伸びしろが存在することも確認。ならば、その領域を目指さないでどうします。
夕方、廿日市の「あいプラザ」に行き、2Fのスタジで開催されたヨガマスター「ゆきおさん(from 東京)」の講義を拝聴。お題は「ヨガ哲学と仏教」。ほとんどがすでに知っている内容で初心者向けの気がしたが、体系的に上手にまとめられており、俺の頭の整理がついた。それにしても、なぜ俺が「知っている」のか。ここであたらめて苫米地英人さんのスゴさを再認識するのである。 彼の著作には度々「抽象度」という言葉が出てくる。「抽象的」とは、「具体的」の反意であり、物事が曖昧なイメージがあるが「抽象度」となると意味が大きく変わってくる。 たとえば「アメリカンショートヘア」で抽象度を考えてみる。「アメリカンショートヘア」は「猫」に含まれる。さらに「猫」は「哺乳類」に、「哺乳類」は「動物」に、といった具合に、下方の概念を含みながら、より広く本質的な概念へとシフトアップすることを「抽象度を上げる」とよぶのである。昨年の正月、初めて手にした彼の著作で、この耳慣れない言葉に出会った時、抽象度を上げてしまうと下方に含まれる小さな事象=アメリカンショートヘアが埋もれて見えなくなっては意味がないじゃん、と違和感を覚えた。しかし今は解る。高い抽象度をもてば「Googleマップ」のごとく縮小も拡大も意のままになるのだと。 ヨガ哲学と仏教、キリスト教、密教、気功、脳機能、認知心理、音楽、政治、世界情勢まで、苫米地さんの高い抽象度フィールドには、ハンパない量の情報が網羅されている。抽象度があがると、それぞれを別個のものとしてではなく、「縁起」も含め「自在」に観ることが可能となる。すると、自分のつまらぬ偏見や盲点に気付き、視界がスカッと拓けてくる。この状態が、苫米地さんのいう「脱・洗脳」なのだ。他人や社会が仕掛けてくる狭窄的価値観から開放され、真の自由「観自在」が体感できる。「観自在」とは「自在に観る」であり「自分が在ることを観る」でもある。 そして「メディテーション」によって、人類歴史上、最高の抽象度を得たのが「仏陀」なのだ。彼は断じて宗教者ではない。哲学者であり武術家であり現代で言うところの脳機能学者。その意味でも、苫米地さんは近いのかもしれん。先日、西麻布のライブハウスで実際に会って話をしてみたが、ニコヤカなオッサンというかニーチャンというか。 「苫米地さんも今日演奏されるのかと思いましたよ(彼はトランス系ハードロックギタリストでもある)」 「さっきランディさんからもそう言われたけどさ、急にはできないよ。だって俺の場合、機材(彼のライブでは冷蔵庫くらいの大きさがあるマーシャルのアンプを何台も使うとのウワサあり)はトラックじゃないと運べないんだもん。グフ、グフフフフッ」 この「グフフフフ」に、彼のチャーミングさを知るのであった。
*写真:わざわざ広島から持っていった彼の本「超訳・般若心経」にサインしてもらいました(俺もミーハーじゃのう)。ちなみに「一念三千」とある。あ、苫米地さん、日付間違ってますけど(笑)。
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