昨日、不撓不屈の精神を奮い起こして喫茶こばやし一時復帰を決断したというのに、直後オフクロから連絡があり「あのね、パートの人が見つかったけぇね、エエ人でねぇこれがまた。ほいじゃけアンタもう来んでもようなった」とのこと。ひでぶっ! そんなわけで終日、いつも通りの執筆業務。そしてこれまたいつも通りにカネになる仕事ならん仕事、分け隔てなく粛々とこなす。忙しいけど楽しいなっ。1ミリでもいい、前進あるのみ。
「その男ヨシオ」こと、祖父嘉夫が生前愛読していた溝口似郎著『無人格者の群像』を読了。大東亜戦争後、戦犯として死刑宣告を受けて服役し、ひとり、ふたりと死刑囚仲間が当日告知で少しずつ処刑されていくという極限状態で185日間を過ごした溝口氏の自伝。結局、彼と数名の部下だけ奇跡的に無罪放免となるわけだが、同じ牢獄に繋がれていた死刑囚のほとんどが数日前か当日、不思議なことに自分の処刑日と時刻を極めて的確に予知したという。
彼らは悲しくも鉄格子の冷たい独房内で生の極限が他動的なものであるところに無限の淋しさと、無限の悲しみの裡に死と真剣に取り組む絶対境に於いてはじめて生の尊厳さを知り彼らの魂と霊をゆさぶり、眠れる霊感を覚醒さしたのではないだろうか、、、、。 (溝口 似郎「無人格者の群像」より)
嘉夫じいちゃんがこれを読んでいたのは亡くなる前、1970年あたりと思われるが、「えらいのう、このひとはえらいひとじゃのう、、、」と何度も感嘆していたと言う。戦勝国主導による一方的かつデタラメな戦争裁判により、輸送部隊長であった溝口少佐は身に憶えのない罪で「戦犯」「死刑」という烙印を押されての収監。明日は我が身か?と精神を四六時中ギリギリと苛まれながらの獄中生活は、肉体的拷問を凌駕するものだったようで「はよう、殺してくれっ!」と懇願する者も少なくなかったとか。 刑の執行を告げられ、刑場へ曳かれてゆく者は「みなさんさようなら。靖国で会いましょう」と仲間に言い残し、見送る者は「海ゆかば」を涙ながらに歌ったのだ。そして絞首刑台の13階段を昇り首に縄がかけられると、泣く子も黙る鬼将校だろうが憲兵だろうが年齢に関係なくほとんどが「おかあさんっ!」と絶叫したという。 たしかに日本軍は民間人や捕虜に対して残虐な行為をしたこともあるだろう。だが、それが戦争。正義も悪もない。勝ちと負けがあるだけだ。俺は首相の靖国参拝には正直、これまでいい印象を持てなかった。でも、あ の時代を戦場で過ごした多くの人にとって靖国は絶対的な心の拠り所であったし、そこに今祀られている<戦犯>に対する認識も戦争裁判のいい加減さを見るに再考の余地があるのではないか。 原子爆弾で広島・長崎で30万人(俺の親族の大半が即死。骨さえ見つかっていない)、東京その他全国64都市に及ぶ大空襲で60万人もの非戦闘員が焼き殺され、戦争終結後の大陸引き揚げ途中の難民が強姦・殺傷され(これまた俺の親族多数犠牲)、シベリア抑留で40万人が凍死・病死・飢え死にし、一方的に裁かれた戦犯罪(A級&BC級)で1068人もの首が吊られている。もう充分だろ?償いなどとっくに済んでいる。<国>で語るな、何人であろうが個々の人間の尊厳を見つめて欲しいのだ。
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